現代技術に取り残される人々と連帯責任


シンジです。明日は第2回ロードバランスすだちくん勉強会なので、心を清く保つために座禅を組んでいたら、TEDで現代のテクノロジーに絡めたローマ教皇のスピーチが素晴らしかったので転載します。それでは明日、清き心でお待ちしております。

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日本語訳

「こんばんは」 それとも 「おはようございます」でしょうか。

そちらが何時なのか分かりませんが、何時にせよ 皆さんのカンファレンスに参加できてとても嬉しいです。

私は、このイベントのテーマがとても好きです。

“The Future You” (未来のあなた)

なぜなら、このテーマは、明日を見据えながら今日対話を始め、あなた自身を通して未来を洞察するよう誘っているからです。

「未来のあなた」です。

未来は一人ひとりの「あなた」でできています。未来は たくさんの出会いでできています。人生というのは、他者との関係を通して流れるものだからです。人生の長い年月をかけて私が強く確信したことは、一人ひとりの存在が他者の存在と深く結びついているということ。

人生は単に過ぎゆく時間ではなく、人生は互いの交流だということです。私が人と出会い耳を傾けるとき、それは病に苦しむ人だったり、明るい未来を求めて、大きな困難に直面している移民だったり、心に地獄の痛みを抱える囚人だったり、職を見つけられずにいるたくさんの若者だったりしますが、そういう時、私がよく抱く 疑問があります。

「なぜ彼らであって、私ではないのか?」

私自身、移民の家族に生まれました。
父も祖父も、他の多くのイタリア人と同じく、アルゼンチンを目指して祖国を離れ、着の身着のまま取り残される人々の運命に遭いしました。
私は今日の「捨てられた」人々と同じ羽目になってもおかしくありませんでした。だからこそ私はいつも、心の奥で自問します。

「なぜ彼らであって、私ではないのか?」と。

まず、この集まりを機に思い起してほしいと思います。私たちは皆、互いを必要としていること。誰一人として 他者から隔絶した孤島のように、自立し独立した存在ではないこと。あらゆる人を含めた、皆が共に立つことではじめて未来は築けること。

普段あまり考えないかもしれませんが、すべては繋がっており 私たちは、互いの健やかな関係を取り戻す必要があります。

兄弟姉妹に対して密かに抱く辛辣な見解。
癒えることのない開いた傷口。
許されることのない過ち。
自分を苛むばかりの怨恨。

これは全て、私が心中に抱える葛藤の例であり、燃え上がって全てを焼き尽くしてしまわないよう消し止めなければならない、心の奥にくすぶる炎です。

こんにちでは、多くの人が幸せな未来はあり得ないと 思っているようです。そのような不安は真剣に受け止められるべきですが、克服不能ではありません。外の世界への扉を閉ざさなければ乗り越えられます。個々の要素が全体として調和した結果としてのみ、幸福は実現します。

科学でさえ、皆さんの方が私よりお詳しいでしょうが、各々の要素が他の全てと繋がり合い作用し合う場として世界を理解しようとしています。

ここで2つ目のメッセージに移りましょう。

科学や技術の発展が進むことで、より平等で共生的な社会をもたらせるなら、なんと素晴らしいことでしょう。

はるか彼方の惑星を発見する一方で、周囲にいる同胞の必要性を再認識できるなら、なんと素晴らしいことでしょう。

美しいけれども、時として不都合ともなる「連帯」という言葉が、福祉事業に限らず、政治的、経済的、科学的な選択や、個人間、民族間、国家間の関係における 基本姿勢となるなら、なんと素晴らしいことでしょう。

真の意味における連帯を目指す、教育によってのみ 人類は「無駄遣いの文化」を克服することができるでしょう。

無駄遣いというのは、食べ物やモノに関するだけではなく、何よりもまず人についてです。

今の技術・経済のシステムに取り残された人々です。

知らず識らずのうちに、人間ではなく、人間の作ったモノが中心に据えられてしまっています。

「連帯」とは多くの人が辞書から消してしまいたいと願う言葉です。

でも連帯とは、機械的なメカニズムではありません。プログラムしたり、制御したりはできません。人々の心に生まれる自由な反応なのです。

そうです。自由な反応です。

多くの矛盾に満ちていても、人生は贈り物であり、愛が 人生の源であり意義であると気づけば、他の同胞の役に立ちたいという衝動をどうして抑えられるでしょう?

良いことをするためには、記憶力と、勇気と、創造力が 必要になります。

TEDには、創造力溢れる多くの人が集まることを私は知っています。

そうです。愛には創造力を働かせ、具体的に物事を工夫する姿勢が必要です。

善意と習慣はしばしば私たちの良心を満たすのに使われますが、それだけでは不十分です。

互いに助け合って忘れないようにしましょう。

相手は統計や数値ではありません。

相手には顔があるのです。

「相手」というのは常に実際の存在で、世話を焼くべき人間です。面倒を避けて生きる人と、他人の世話を焼く人との違いを私たちが理解できるよう、イエスが語った話があります。

みなさんご存知だと思いますが、『善きサマリア人のたとえ』です。

イエスが「隣人とは誰のことですか?」 と問われた時、つまり「誰の世話を焼くべきか?」と聞かれたんですが、イエスはこんな話をしました。

ある男が襲われて、身ぐるみを剥がれ、殴られて、道にうち捨てられていました。

当時の有力者層だった祭司やレビ人は、彼を見ても立ち止まることなく、通り過ぎました。

しばらくして当時非常に蔑まれていた民族のサマリア人が通りかかりました。

地面に横たわる傷ついた男を見てサマリア人は、その男をいないかのように無視したりはしませんでした。

この男をあわれに思い、いても立ってもいられず、具体的な行動に出ました。

サマリア人は、この無力な男の傷口にオイルとワインを注ぎ、男を宿屋に連れて行き、男の治療費を自分で払いました。

『善きサマリア人』の物語は、今でいう人道的問題の話です。

全てが人ではなく、金やモノを中心に回り、人々は苦難の道を歩んでいます。そして相当な地位を自認する人々にありがちなこととして、彼らは他人の世話を焼くことなく何千人もの人や、時にはコミュニティ全体の人々を道端に置き去りにします。

幸いにも、自腹を切ってでも他人の世話を焼いて、新しい世界を作ろうとしている人たちもいます。

実際、マザー・テレサは言っています。

「自分を犠牲にすることなく、誰かを愛することはできません」と。

やるべきことは山ほどあり、私たちは協力しなければなりません。しかしながら、毎日様々な悪に接しながら、どうやってそうできるのでしょう?

ありがたいことに、善なるもの、思いやり、悪に立ち向う力に心を開きたいと願う気持ちは どんな体制にも消すことはできません。

私たちの心の奥底に由来するものだからです。

でも皆さんは思うかもしれません。

「それは結構だけど、自分は善きサマリア人でもマザー・テレサでもない」と。

それは逆で、私たちは一人ひとり全てが尊い存在なんです。

神の目には、私たちの一人ひとりがかけがえのない存在です。私たち一人ひとりがみんな、明るいロウソクとなって、こんにちの不和がもたらす暗闇を照らす、明るい光となることができます。

光は暗闇に打ち勝ちこそすれ、負けることは決してないと思い起こせるように、キリスト教徒にとって未来には名前があります。

その名前とは「希望」です。

希望を抱くのは、楽天的な世間知らずになることでも 人類が直面している悲劇に見て見ぬふりをすることでもありません。

「希望」は心の美徳であり、暗闇に閉じこもることなく 過去にしがみつくことなく、今をなんとか生き抜くだけではなく、明日を見据えることができる美徳です。

「希望」は未来へと開かれた扉です。

「希望」はひっそりと目立たなくとも、やがて成長して大樹となる生命の種です。

希望は目に見えないイースト菌が、パンの生地全体を膨らませるように、人生のあらゆる局面に香りや彩どりを添えるものです。

希望には大きな力があります。なぜなら、希望の糧であるところの光がほんの少し閃くだけで、暗闇の盾を打ち砕くのに十分だからです。

希望を存続させるには、一人いれば十分であり、その一人になるのはあなたかもしれません。

そこから別の「あなた」や、また別の「あなた」が加わって、「私たち」になるでしょう。

では希望は「私たち」になると始まるでしょうか?

違います。

希望は「あなた」ひとりから始まります。

「私たち」になったときに、始まるのは改革です。

今日お伝えしたい、3つ目のメッセージは改革について。

優しさの改革です。

「優しさ」とは何でしょうか?

優しさとは、近くにあって現実となる愛です。

それは私たちの心から始まって、目、耳、手へと伝わる動きです。

優しさとは、自分の目で他者を見つめ、自分の耳で 他者の言葉を聞き、子供たち、貧しい者、将来に不安を抱く人たちに耳を傾けることです。

私たち共通の住処である病に侵され、汚染された地球の声にならない嘆きに耳を傾けることでもあります。

優しさとは自らの手と心でもって、他者をなぐさめることです。

困っている者の世話を焼くことです。

優しさは幼い子供たちの言語であり、他者を必要とする者の言語です。

両親に対する子供の愛は、両親の手、眼差し、声、優しさを通して成長します。

親が自分の赤子に話しかけ、幼子に合わせて同じレベルで意思疎通するのを聞くのが私は好きです。

これこそが優しさです。

他者と同じ立場に立つこと。私たちと同じレベルに身を置くため、神は自らイエスとなって現れました。

これは「善きサマリア人」が取ったのと同じ道。イエス自身が取ったのと同じ道なのです。

自らを人の身にやつし、人間としての人生を生き、真実で揺るぎない愛の教えを実践しました。

そうです、優しさは最も強く、最も勇敢な男女が選ぶ道です。

優しさは弱さではなく、不屈の精神です。

それは連帯の道であり、謙虚の道です。

声を大にしてはっきりと言わせてください。

権力を持てば持つほど、自分の行動が人に及ぼす影響が大きくなり、謙虚に振る舞うべき義務が大きくなります。

謙虚に振る舞わねば、権力はあなたを害し、あなたは他者を害することになるでしょう。

アルゼンチンにことわざがあります。

「権力は空き腹に飲むジンの如し」

謙虚さと優しさをもって権力を行使しないなら、目が眩み酔いしれてバランスを失い、自分自身や周囲の人を 傷つける結果になります。

一方、謙虚さと揺るぎない愛をもって行使するなら、最高最強の権力にも良い奉仕ができ、善への力となります。

人類の未来は、政治家や優れた指導者や大企業の手にのみ委ねられているのではありません。

確かに彼らは大きな責任を負っています。

でも未来は何よりも、他者を相手として認識し、自分を全体の一員として認識する、そういう人たちの手にかかっているのです。

私たちは皆、互いを必要としています。

だから、どうか私のことも優しさをもって考えてください。

そうすれば私は他者のため、ありとあらゆる人のため 皆さんのために、与えられた責務を全うできるでしょう。